そんな風に図書館のおばさんにお勧めされた映画があります。
映画「火の山のマリア」
現題は「IXCANUL」といって、グアテマラマヤ系先住民インディヘナの言語で火山を意味します。
キャッチコピーは「わたしは、この熱い大地から生まれた。」
ボランティアとしてグアテマラで生活するなら普通に観光客として訪れる以上にこの国のこと知りたい、そう思い、図書館のおばさんのススメに従ってこの映画を観ました。
世にも珍しいグアテマラ映画ですが、第65回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞するほど話題にもなった作品です。
そんなグアテマラ映画「火の山のマリア」の感想を書きます
因みにあらかじめ言っておくと、この映画はエンターテイメント性を期待してみることはお勧めしません。
また、ネタバレはなるべくしないように心がけます。
Contents
グアテマラのマヤ系先住民女性が主人公「火の山のマリア」あらすじ
舞台はグアテマラ
グアテマラで生活していると、日本に住む家族や友人から、
「火山噴火のニュースみたけど大丈夫?」
「地震のニュースみたけど被害はないの?」
といった連絡が頻繁にきます。
日本でもよく取り上げられるほど火山活動の活発な国、グアテマラ。
そんなグアテマラのとある活火山のふもとに暮らすマヤ系先住民インディヘナの17歳の少女、マリアがこの映画の主人公です。
貧しい家庭に育ったマリアは家族の決めた相手、彼女ら家族が住む土地の地主、イグナシオとの結婚を強制的に約束させられます。
一方で、コーヒー農園で低賃金労働者として働く青年ペペ、
「あの山の向こうにはアメリカがある、そこには庭付きの家があり、車があり、自由がある」
閉ざされた狭い世界に住むマリアは、アメリカ行きを夢見るペペのそんな言葉にいつしか心惹かれ、ついには
「私も連れていって」
といってしまいます・・・両親が決めた許婚がいるにもかかわらず・・・
そして一夜の過ちから、マリアはペペの子を身ごもってしまい・・・
グアテマラで孤立し、マヤ系先住民の伝統の中で生きる映画の主人公たち
さて、ここまで聞くと単なるグアテマラ版昼ドラ、インディヘナ男女による三角関係ドロドロ愛憎劇かのように聞こえてしまいますが、この映画にはもう一つ重要な側面があります。
それは、映画の主人公たちは世界との繋がりが希薄である、ということ。
具体的に言えば、大地主のイグナシオを除いて主人公たちはスペイン語を話せません
マリアの家族は、言語のみならずその生活習慣も、マヤ系先住民の伝統、古くから代々伝わる教えの中で細々と暮らしています。
「え・・・そんなのアリ?」と、思わず笑ってしまうくらい非科学的で非合理的なまじないめいたことを、それが伝統であれば、当たり前のことかのように忠実に実行してしまうくらい、世界の常識とかけ離れています。
また、上に示しているように、インディヘナは地域別に独自のマヤ言語を話し、現在でもグアテマラには21種類もの言語圏が存在しています。
「インディヘナが主人公の物語なんだからスペイン語を話せなくても特に支障ないのでは?」
と思う人もいるかもしれませんが、実際には、中央政府で権力を持った人が全てスペイン語を話すグアテマラにおいて、スペイン語を話せないことはとても弱い立場に置かれることを意味します。
このような言語の壁は日本にいてはなかなか意識しづらいことですが、実際につい最近まで続いていたグアテマラで起きた内戦、インディヘナへの差別意識はこの国民同士の間にある言語の壁が大きな影響をもっていました。
グアテマラ内戦の暗い歴史を書いた「私の名はリゴベルタ・メンチュウ」感想▼
このような歴史的、文化的な背景を知った上で映画を鑑賞すると、より理解が深まるかと思います。
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映画の舞台グアテマラで最も弱い立場にいたマリアの葛藤
インターネットもなく、言語圏的にも文化圏的にもマジョリティの世界から隔離されたところで生まれ育ったマリアは“狭い世界”の象徴であり、また、“弱い立場”の象徴でもあります。
上述したような歴史的、文化的背景も考慮すると、マリアの世界が如何に狭く、そして如何に弱い立場に置かれた存在であるかがわかります。
マヤ先住民インディヘナとしての立場の弱さ
インディヘナはグアテマラ内戦当時、労働者として低賃金で搾取されてきたという歴史的な背景があります。
また、インディヘナというだけで差別もされてきました。
そして何より、「スペイン語が話せない」ということはグアテマラ社会で生きるうえで致命的に弱い立場におわれます。
映画ではたびたび、イグナシオがマリアたち家族とスペイン語話者の間に入って通訳をする場面がありますが、彼が意図的に情報を操作してしまえば家族はその嘘に気づくことすら出来ず、鵜呑みにするしかないのです。
未成年としての立場の弱さ
17歳の幼い主人公マリアはまだ独り立ちできる立場にはなく、親の言いつけを守ることが正しいことである、という教育のもとに育っています。
ご先祖様のいいつけを厳しく守ることを美徳としているインディヘナは、子が親の言いつけを守ることも絶対
経済的にも自身の意思を貫けるだけの環境にはありません。
女性としての立場の弱さ
インディヘナの社会にはマチスモといわれる男性優位主義の考え方があります。
日本にも似たように、古くから「男性は外で働き、女性は家の中で家事をする」といった考え方がありますが、それと似たようなものであると考えると想像はつきやすいかと思います。
そして、これらの“弱さ”の要素を全て持ち合わせているのが、主人公のマリアなのです。
それでも不幸ではない!グアテマラで力強く生きる映画の主人公マリア
どんなに狭い世界に生きていても、また、どんなに弱い立場にあっても、映画のなかでマリアは決して不幸な少女として描かれていません
現実を受け入れながらも力強く生きる姿、こそがこの映画から伝わってくる最大のメッセージのように思います。
それはマリアだけでなく、その家族も同様です。
スキャンダラスな失態を犯したマリアですが、マリアやその家族はその事態に対処こそすれど、起きてしまったことを過去にさかのぼって罵倒したり叱責したりはほとんどしません。
変えられない過去に固執せず、ありのままを受け入れる強さがあるように思います
日本の映画やドラマだったらどうでしょう。きっと、頑固親父がちゃぶ台をひっくり返して、娘の犯した過ちを大声で罵倒したり、娘をはらませた男に復讐しようとしたりするのではないか、と想像します。
起きてしまったことは、いくら大きな声を出しても暴力的な態度をとっても変わることもありません。
奇妙なおまじないを信じてしまう、私たちとはかけ離れた価値観のなかにも、学ぶべきものがたくさんあるように思います。
グアテマラを知る為の映画「火の山のマリア」感想
例えば、国際協力的な観点からみれば、貧しいマリアの家族は不幸であり、その状況から救い出すには電気・水道といったライフラインの整備、スペイン語の教育、インターネットの普及による情報格差の是正など、様々な課題がありそうです。
一方、幸福度という尺度でみたらどうでしょう。
日本はインフラも整っていて、経済も発展していて、インターネットへのアクセスも便利なことこの上ない先進国です。
しかし、ひとたび芸能人が不倫でもすれば、家族でも仕事の関係者でもない大勢の赤の他人が一斉に集中砲火を浴びせ、精神を病んだり時には仕事に復帰できなくなるほどまで徹底的に攻撃します。
そんなワイドショーでよく見かけるシーンと、この映画の、マリアが犯した過ちに対するマリア本人とその家族の向き合い方を見ると、果たしてどちらが幸福なのか、わからなくなってきます。
・選択肢を持つこと
ももちろん大切ですが、
・多くの情報に流されない価値観の軸
を持つことも大切だな、と、映画を観て自分や身の回りのことを省みたとき、そんなことを考えたのでした。
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