途上国にいる物乞いにお金をあげない理由と国際協力や支援のあり方に疑問を抱く理由と

みすぼらしい格好をした男がよろよろと歩きながら近づいてくる・・・

 

嫌な予感がする・・・

 

私のそばで立ち止まった

 

肩をたたくので振り返ると

 

 

カネをくれ

 

 

海外、特に途上国に行ったことのある人は必ずといっていいほど出くわしたことのあるこのような場面。

多分にもれずこのような場面によく出くわすオチョ(@diadecanicula)だけど、私はこのような途上国にいる物乞いにお金を出したためしがない。

むしろ嫌な気分になるし、出来る限り関わりあいたくないとすら思う。

一方、物乞いとは似て非なるものとして、物売りがいる

例えば私が青年海外協力隊として滞在するグアテマラではよく、アメやガムを売り歩く子供たちを見かける。

彼らに声をかけられても嫌な気分はしないし、時にはお金を払って買ったりもする。

この違いは何だろう。

青年海外協力隊になって、これまでの人生であまり考えてこなかった、「国際協力とはなにか?」「支援するとは何か?」みたいなことを考える機会が増えた。

結論の出ないもやもやした問いに対して、現時点で考えていることを言語化してもようと思い、こうして記事にしてみます。

 

 

途上国で物乞いにお金をあげる偽善性に疑問をいだくこと

国際協力は一般的に“偽善行為”、あるいは“ただの自己満足”と揶揄されることがある

それは途上国の物乞いにお金をあげる行為に似たところがあるからなのかもしれない。

物乞いにお金を上げたら、もしかしたらそのお金でご飯を食べたり水を飲むことが出来て、その人自身やその家族を一時的に救うことになるのかもしれない。

でもそれって、本質的にその人を救ったことになるのか?

逆にお金をあげることで満足してしまい、それ以上努力したり解決策を自分の力で見出そうとしたりする可能性を閉ざしてしまうのではないか?

おそらく、このような類の悩みに正解などないのだろう。

どのような協力的行為にも、“救い”になる部分と“甘え”に繋がる部分との二面性が共存してし、あとはその比率や程度の問題でしかない。

お金をあげたことによる効果は定量的に検証されることが難しく、最終的にはあげた本人の満足感によってその行為の善し悪しが定義付けられる。

青年海外協力隊という立場で国際協力という分野に片足を突っ込んだ状態だけど、なんとなく“協力”というものに疑問を抱いているのはその行為の偽善性によるところが大きいのかもしれない。

 

 

アメを売る途上国の少年とアメを買う先進国の私は対等だ

一方で、途上国の物売りからはそのような懐疑的な感情を抱かず、アメでもガムでも躊躇なく買うことができる。

例えば、途上国のレストランで食事をしていると、アメ玉がたくさん入った袋を持った少年が入ってきて、

 

「アメ買って」

 

と声をかけてくることがある。

そのとき、アメを買うという行為を通じてその少年と私は“需要”と“供給”という対等な関係で繋がる

食後にミントのスースーしたアメを口に入れたいな、という私の需要を、ミント味のアメを持った少年が満たしてくれる。

少年が途上国で生まれ育ったことや、彼が日本で一般的にいうところの貧しい境遇にいることも関係なく、このときの少年と私は対等だ。

ここでお金を渡す際、協力”や“支援”といった動機は一切働かない

もちろん、少年がミント味のアメを持っていなければ買わないし、理不尽な金額をふっかけてきたら二度と彼のセールスに耳を傾けることはないだろう。

少年はビジネスをしているのだから、私もそれをリスペクトする。

 

 

物乞いと対峙するときは相手を見て、物売りと対峙するときは自分を見る

物乞いと対峙したとき、私はその相手をみる。

相手が太ってたら、

 

「なんだ、全然メシ食えてるじゃん」

 

って思うし、それなりにキレイな身なりしてたら

 

「努力すれば物乞いなんてしなくても自分でなんとか出来るんじゃない?」

 

って思う。

 

1番嫌な気分になるのは酔っ払いの物乞いを見たときで、

 

「こんなやつにお金をあげても酒代に消えるだけだろう」

 

と思う。

 

そもそも、その人が本当に物乞いをしなければ明日の生活もままならないような状況なのかどうかなんて、先進国からきた私がその場で判断する知識も時間もない

そのような判断をおこがましいとすら思う。

だから結局、こういった物乞いにお金をあげたことは一度も無い。

 

一方、物売りと対峙したときは相手ではなく自分をみる

今、自分は目の前に提示されたものを欲しているのかどうか、持っているお金は十分かどうか、得られる物と対価として差し出すものとがちゃんと釣り合っているかどうか。

これらは自分に対してする確認なので、結論もすぐに出る

結論を出すにあたって相手の置かれた立場や状況は関係ない。

おこがましさを感じる必要も無い。

それは、スーパーで商品を選んでかごに入れる感覚となんら変わらない。

 

 

途上国であっても物乞いよりも物売りがより多くのお金を得て欲しい

どんなに小さくてもビジネスはビジネスだ。

だから、どうせお金を払うならビジネスをしている人に払いたい。

貧富の差が大きい途上国においても、価値を提供する(しようと努力する)人がより多くのお金を手にして欲しい

 

こんな想像をしてみる。

例えば丸一日物乞いをしていた人が、アメを売り歩いていた人よりも多くのお金を得て、その日豪華な食事にありつけたとしたらどうか?

物乞いのそんな姿をみたら、物売りは翌日から物売りをやめて物乞いに転身してしまうかもしれない。

そんな風に、物乞いが物売りより多くのお金を手にしてしまって、だれも価値を提供する努力をしなくなってしまうのが嫌だ

 

それとは逆に、物売りがより多くのお金を得て、それを見た物乞いが、

「あ、あっちの方が儲かるのかな」

とかいって物売りをはじめたいと思うような社会のほうがより健全なように思う。

そんな風に思うので、やはりこれからも物乞いにはお金を払わないだろう

物乞いに物乞いのままでいてほしくない。

 

 

途上国での物乞いへの対応から見る国際協力とソーシャル・ビジネスの違い

よく、国際協力とソーシャル・ビジネスが同義に扱われるような文章や発言を見聞きするけど、私の中ではこの2つを明確に区別している。

その2つの違いは、途上国において「物乞いにお金を渡す行為」「物売りから何かを買う行為」くらい明確に違うと思っている。

国際協力は相手の不憫な状況をかんがみてそこに手を差し伸べる行為であるのに対し、ソーシャル・ビジネスは自分の中にある需要と相手のもつ供給が対等に繋がる行為だ。

青年海外協力隊としてグアテマラに来ているけど、現地の人に対して上からの目線を持っていないし、手を差し伸べるといったような行為もしていない。おこがましいとすら感じる。

一方でビジネスをしているわけでもないので、なんとも中途半端な立ち居地であることは否めない。

まあ少なくとも私がしていることは国際協力ではないのだろう

 

バングラディッシュの経済学者で同国にグラミン銀行を創設したムハマド・ユヌスがノーベル平和賞を受賞したのが2006年、彼がソーシャルビジネスの考え方を提唱した著書『貧困のない世界を創る : ソーシャル・ビジネスと新しい資本主義 』が日本で発売されたのが2008年。

あれから10年の時が経過して、テクノロジーもどんどん発展・普及していき、これまで「国際協力」が担っていた役割は徐々に「ソーシャルビジネス」が代わりに担うようになってきている

きっとそのスピードは今後もどんどん加速していく。

これからの国際協力のあり方、それはその役割が担う範囲を狭くし、より高いレベルのもの、例えば戦争や自然災害など個人の力ではどうすることもできない事象によって貧困など窮地に立たざるを得なくなった人たちへの支援、といったものにシフトしていくのではないかと思う今日この頃。

 

 

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